2021/04/08

MICHEL HENRITZI / MICRO JAPON [日本語]


Michel Henritzi氏による、日本のアンダーグラウンドシーンで活躍するミュージシャン三十数名にわたるインタビューを収録した著作『MICRO JAPON』が、フランスの出版社LENKA LENTEよりついにリリースされました !

リンク : LENKA LENTE

全てフランス語なので、自分のページだけ少し加筆修正して翻訳してみました。


 

SHIN’ICHI ISOHATA

 


磯端伸一は、今井和雄氏や大友良英氏など他の著名な同門の先輩ギタリストに続く、故・高柳昌行氏に師事した最後の生徒でした。高柳氏の音楽行為や音に対する理念、倫理観は磯端に多大な影響を与え、師事して以来、音楽に彼自身の基準と完成度を課してきました。高柳氏が亡くなるまでの6年間、彼はストイックに研鑽を積みました。

晩年の高柳氏の音楽は「アクション・ダイレクト」と名付けられた凄絶なソロ・ノイズ・プロジェクトが中心となり、プリペアドされたエレクトリックギター、機械やエンジン音、地下鉄の轟音、独裁者の演説… などを最大音量で増幅させた多層コラージュによる、巨大なノイズのカタストロフでした。

高柳氏とは対照的に、磯端の音楽は内側へ向かう微細な音響や、静けさの中からサウンドが紡がれます。爆発的な高密度よりも余白やわびさびを好む俳諧のように、彼の音楽にはこれまでに体得したテクニックの実証は多くありません。彼の音楽は非常に繊細で、壊れやすく、ドローイングのように励起されます。その運指は、複雑なパターンの倍音から織り込まれた幽玄なメロディーを描きます。

私は杉本拓氏の紹介によって磯端の存在を知ることが出来ました。杉本氏は磯端を高く評価し、彼のためにギター・ソロ曲を作曲したこともあります。

磯端は作曲家でもあり、『フリーダカーロの遺品 / 石内都 - 織るように』 (監督 : 小谷忠典) のドキュメンタリー映画などの音楽を担当しています。

現在は関西を拠点として、即興や自らのプロジェクトの公演をしばしば開催し、国内外の様々な分野で活躍するアーテイストとたくさんの共演を果たしています。




出身地は?

1962年に大阪で生まれました。兄弟姉妹は居ません。 18歳まで大阪の隣の尼崎市に住んでいました。


最初に記憶している音は何ですか? 音楽を意識したのはどういったものですか?

最初に興味を覚えた音は、子供向けアニメとか特撮の効果音やオノマトペでした。 武満徹の映画「怪談」のような。


楽器演奏に興味を持ったのはどういうわけで? なぜギターを選んだのですか?

中学生の頃、日本ではフォークソングやポップスが人気で、それらは主にギターで伴奏されていました。それで私も時流に流され、ラジオとかから聞こえる曲の弾き語りをやりたくて自然にギターを手に取り弾きはじめました。当時は友人からクラシックギターを学びました(彼は多くの賞を受賞している非凡なギタリストでした)。


テクニックは音楽を作るために不可欠な要素ですか? 演奏技術とはどのように関係しますか?

テクニックは自身の表現を満たすためのスキルなので、表現したいものに依存します。 明確なビジョンのない過度の技術至上主義に没することは時間の無駄だと思います。


学校では音楽の授業はありましたか?日本の学校は子供たちにどのような音楽を伝授しますか?日本の歴史において、明治時代から伝統音楽は西洋音楽に置き換えられて教えなくなったと聞きました。外来音楽に対する伝統文化の掩蔽をどう思いますか?

ほとんどの伝統音楽は、それぞれの地域独自の民族性に由来しており、日本にもな少なからずの種類の伝統音楽があり、それぞれがその時代の社会とも関わっています。第二次世界大戦前までは、和風の歌や童謡も教えられていたと思いますが、戦後の音楽教育は西洋音楽主体でした。そのため、今やほとんどの日本の伝統音楽は民間伝承で受け継がれています。それでも私は明治政府が主として西洋音楽を採用したことについては特に否定しません。前述のとおり邦楽は民間伝承によって受け継がれています。固有の民族性は根強いので、簡単には無くならないのではないでしょう。そもそも 音楽(のみならずあらゆる芸術)を「教育」することはできません。畢竟、「芸術の教育」は権威主義と利権への関心、芸術家自身の堕落という、当然のごとく大きなリスクを持つことになってしまいます。なので小中高の一般公的学校では(伝統)芸術をあくまで「紹介」程度で捉えればよいのではないでしょうか。時間的にも音楽ならせいぜい初歩的な楽器の演奏方法や音符を教えられるくらいです。もっと学びたければ、専門の学校に通うなり誰かから個人的に学べばよいだけです。「音楽」をやりたければ誰もが自分自身で自由にできます。「教える」ことができるのは技巧と知識だけです。ともあれ芸術や文化に対する意識については、日本とヨーロッパの間にいくばくかの温度差があるでしょうが、こういった問題惹起(音楽教育)は、伝統芸術や文化は大衆各々で守らなければならない日本の、古来~現在における国民性(舶来指向も)にも起因するのかもしれません。


大学時代は何を聴いていましたか? どういったものを演奏するのが好きでしたか、またその理由は?

ジャズの理論とジャズギターを本格的に学びたかったので、二十歳前に大学を中退して東京のジャズ音楽院に入りました。当時は主にジャズやフュージョンを演奏したり聴いたりしていました。13歳の頃にテレビの音楽番組で見かけたジャズギターなるモノ(ギタリストはおそらくエディ・デュラン)の不思議なハーモニーとメロディーに魅了されたのがきっかけで、それ以来私はジャズに熱中するようになりました。


ジャズはあなたにとって何を意味しますか?ジャズは、壁紙のように、日本社会のあちこちに存在しています。高柳氏に会う前に興味をそそられたミュージシャンはいますか?

子供の頃から、聞いたことのないジャズの不協和音やメロディーに魅了されてきました。それだけでなく、瞬時に作曲・演奏される「アドリブ」というものにも大変興味を持ちました。それらはやがて取り組むことになる「improvisation - 即興」の重要な礎になりました。

高柳さんと出会う遥か以前、初めて購入したジャズのLPは何故か「Midnight Blue / Kenny Burrell」だったことから、彼のギターや、その後にはJoe Passのソロなどを楽理も解らず夢中で耳コピーしていました(Joe Passのスコア出版物もありましたが誤植だらけだった)。また、ジャズとはちょっと違いますが当時のJeff Beckの音楽やサウンドも大好きでよくコピーしました。その他、中学生時代の友達がクラシックギターの名手であり、彼がアンドレス・セゴビアやジョン・ウィリアムズなどたくさんのクラシックギターアルバムを紹介してくれたおかげで、名人たちの音色とタッチには大変影響を受けました。クラシックギターの分野においては、西洋の作品だけでなく、Agustín Barrios(アグスティン・バリオス) や Leo Brouwer(レオ・ブローウェル) などの南米のギター作品および現代音楽作品にも触れることができ、私はそのような音楽に強い刺激をもらいました。日本の伝統楽器である琵琶の音色も好きだったので、ある時、武満徹の「November Steps(ノヴェンバー・ステップス)」を知り、それ以来、武満氏の多くの作品からも影響を受けています。日本のポピュラー音楽では、昭和歌謡に始まり、井上陽水の曲(と星勝の編曲)、初期~中期の松任谷(荒井)由実の曲、そして夫の松任谷正隆の編曲、 長谷川きよし、YMO、渡辺香津美(彼も高柳教室の優秀な生徒でした)等々、およそ当時の同世代リスナー同様、数えきれないたくさんの曲に触れ魅了されてきました。


日本のジャズについて話すことはあなたにとって意味を持ちますか? もしそうなら、どのような?

日本のジャズ(の歴史)についてはよくわかりません。さらに今は日本のジャズとは全く交流がないので、現在の日本のシーンについて何も話せることがありません。高柳さんが亡くなる1991年までに氏が語った日本のジャズシーンについては多少聞き覚えていますが、その多くは厳しい批判とアンチテーゼに費やされてしまいます。


日本のフリージャズに対して高柳氏が特に嫌っていたことは何ですか ?

少々語弊があるかもしれませんが、当時の高柳さんの話として、純粋に音楽を愛さずにビジネスに利用するだけのミュージシャン(すぐ流行に左右される)や、常に真摯に積極的に学ぶことなく売名に走ってばかりの人達に嫌悪感を抱いていました。高柳さんは常々、自分を偽らず極力「白い部分」を残したきれいな手で音楽に人生を捧げたい、と語りそれを全うしました。


高柳昌行氏との出会いとレッスンを受けたきっかけは?彼の前に他の誰かに師事しましたか?

高柳さんと出会う前、私は少しの間、東京のあるジャズ・スクールに通っていました。その後、当時阿佐ヶ谷に住んでいた素晴らしいギタリストのTim Donahue(ティム・ドナヒュー) 氏と出会い、彼から音楽理論とギターの個人レッスンを受け、さらにフレットレスギターも教えてもらいました。ティム氏はフレットレスギターの名手として知られています。

そんなある日、西荻窪の「アケタの店」というライヴハウスで、私は高柳さんのノイズミュージックなるものを初めて「体験」することになります。私はその頃「ノイズ」という音楽概念さえ知らず白紙状態で店に飛び込んでしまったため、いきなり超巨大な轟音が私の体に侵入し、脳内を抉られ捩られ、全身を揺さぶられて…、まるで落雷に打たれたような驚天動地の聴取体験となったわけです。その記憶は今でも鮮明に蘇ってきます。あまりの凄まじさと拷問のような音圧に私は耐えきれず、最初はすぐにでもその場から逃げ出したかったのですが、その一方で、音そのものが実体(生命)を得て活き活きと蠢き増殖していくような感触と、新たな「美意識」のようなものが心身にじわじわと浸透していくような心地良さにも包まれ、徐々に私はその神秘的で常識外れの世界に没入していきました(おかげで1週間ほど耳鳴りが治まりませんでしたが…)。この畏るべき体験の後、私はいったいこれが何であるのか無性に知りたくなりました。幸運なことにそのライヴ当日、若かりし大友さん(当時は高柳さんの生徒でもありローディもされていた) が高柳教室の新たな生徒募集チラシを会場の壁に貼っているのを見つけてしまい、私は絶好のタイミングですぐに教室の門をたたくことを決心しました。まさに自分の音楽人生におけるターニングポイントであり、1985年、22歳の春でした。


Eric Dolphy, Bill Evans, Jim Hallを聞いた後にアクション・ダイレクトのパフォーマンスを見るのはかなりショックだったでしょうね。

高柳さんのノイズミュージックは何度も聴きに行きました。 前述のとおり、初めは凄まじい拷問のごとき痛みを感じましたが、私の中では徐々にいくつかの美的価値観が転換していきました。 信じられないかもしれませんが、何度か聴取経験を重ねていくうちに、氏のノイズサウンドはやがて交響楽的ハーモニーの美しさと心の安寧を私にもたらすようになったのです。 後年、高柳さんは自身のノイズミュージックを「サイケデリック」と仰っていましたが、私もまさにそのように実感します。しかしながら、こういった感覚は生のライヴを体験しないと味わえないでしょうね。



日本のフリーシーンについてはすでにご存知ですか? 私は吉沢元治、山下洋輔、阿部薫、佐藤允彦などを思い浮かべます…、間章氏や副島輝人氏の文章は読みましたか?

日本のフリージャズシーンに起こった過去のいくつかのムーヴメントは知っています。 しかしながら、実はそのほとんどに興味を持つことができませんでした。もちろん 間章氏や副島輝人氏の著書、ライナーノートはいくつか読んでいます。自分にとって最も興味深く信頼できたジャズ、フリーミュージックの評論家は詩人の清水俊彦氏です。


あなたがまだ若く自己を模索していた時期に、海外のジャズと、国内に出現してきたジャズの定義そのものに疑問を投げかけるような先鋭的シーンとの間における対立をどのように経験しましたか?

音楽以外の、当時の社会的、政治的、経済状況などによるものも少なからずあったと思います。 自分は楽器の練習や音楽の勉強で手一杯だったので、実際のシーンやムーヴメントに直接関わることはありませんでした。 私は歩き始めたばかりの見習にすぎませんでした。


高柳さんとのレッスンはいかがでしたか?彼は何について話していましたか?彼は哲学や政治についての議論のためのクラスを開いたのですか?

1985年、当時高柳さんは渋谷の旧カワイ楽器のスタジオで3つのクラスを教えていました。大友さんは第一期生でした。私は高柳さんのレッスンがあることをそれまで知らなかったので、最後の三期生としてすべり込むことができました。当初は個人レッスンではなく、クラス全員によるグループレッスンの形式で始まります。私たちのクラスには開始時には20人以上の生徒がいたかと思いますが、すぐに人数が減ってしまい最終的に残ったのは3人で、途中からはスタジオ内でのプライベートレッスンに変わりました。このクラスで現在も音楽の活動をしているのはおそらく私のみだと思います。

レッスンは基本的にギターを弾くための基礎パターンの連続でした。 楽器の持ち方(座り方)や、左手(左利きの場合は右手)による押弦などはクラシックギターに似たフォームでしたが、クラシックとは違ってピックを使い、足台を用いて右足にギターを置きます。高柳さんはレッスン中にしばしば音楽やいろいろな事について熱く語りました。 話が実際のレッスン時間より長くなることもありましたが、私にとってはそれも非常に興味深い貴重な時間でした。

また、高柳さんが亡くなるまでの1年余りにすぎませんが、ギターレッスンとは別に、とある原宿のビルの一室でジャズの歴史についての講座が月に二回開かれることになりました。 Joachim Ernst Berendt(ヨアヒム・E・ベーレント)のジャズの歴史本「ジャズ / ラグタイムからロックまで (油井正一・訳)」(ドイツ語のタイトル「DASJAZZBUCH VON RAG BIS ROCK」) が使用され、私を含む数人の生徒と、外部からも何人かが参加して、ジャズに限らず音楽全般について、高柳さんの実体験を踏まえた見解と考察を学びました。 話は他の芸術、政治、社会問題に至るまで多岐にわたりました。


高柳氏が提唱した"Mass Projection" と "Gradual Projection" のコンセプトについて教えていただけますか?

これらは、音の密度(リズム、強度、エネルギー) に関する2つの対極です。噛み砕いて言えば、gradually projection は非常に低密度の音の集合であり(音量的には大小可能ですが、沈黙から大音量ノイズへのプロセスではありません)、Mass Projectionはマックスの音量かつ超高密度の音数です。これらのコンセプトはしばしばフリースタイルにおけるギター演奏や "Action Direct" のセットでアプローチされました。ただし、これは単に音数や音量における大小の差というわけではありません。大音量ノイズの中には沈黙が存在します。また沈黙といっても無音ではなく、ノイズ(大音量高密度)を含む「空」としての存在を意味します。両方が別々に存在するわけではなく常に共存します。 2つが1つです。これらは天台の「一念三千」思想のように、仏教哲学的な意味合いを含んでいます。高柳さんはある時期まで(多分30代くらいまで)熱心な仏教徒でした。晩年、私は高柳さんから「自分はある意味仏教を音楽化しようとしている」という話を聞いています。"Action Direct" におけるエレキギターの弦をモーターで震わせるのは、人間では演奏不可能な高速リズム(振動)を必要としたからです。


音楽にとっての沈黙はあなたにどのような意味をもたらしましたか?

上述の高柳さんの考えと近く、沈黙を静寂として捉えています。個人的には日本的な「わびさび」といったものでありそれは無音ではありません。 広大な(あるいは微細な) 空(間隙)の中で、響きの趣を感じられる状態、状況。武満徹氏は、和楽器を用いたいくつかの作品で、音を出すことによって「沈黙(静寂)」を表しました。 おそらく日本人の多くは、様々な響きの空間において一種の静寂を自然に感じているのではないでしょうか。 誰もが知っている松尾芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」で感じられるような。または逆説的に、静寂の中で微細な音を出してもミクロの世界では巨大なノイズにも成り得る。


高柳さんのレッスンは、楽器の練習や音楽への投影に何をもたらしましたか?

レッスンの課題は私にたくさんの反省と効果をもたらしました。高柳教室に入った時、私はすでにある程度のスキルを持っていた(と錯覚していた)ので、最初は単純な半音階などを際限なく繰り返すことに大変退屈していました。愚鈍ゆえ個々の課題の大切さを理解するには少々時間が必要でした。ずいぶん後になってから、このレッスンが自己の悪しきフォームや慣習を修正するのにどれだけ重要であったか、また、音楽表現と演奏技術の結びつきも痛切に実感するに至りました。


高柳氏の音楽について今どう思いますか? Action Directをどのように見ていますか?

ギター演奏による高柳さんのインプロヴィゼーションは、コンテンポラリーのアプローチも取り入れた「ジャズに近い」先鋭音楽だと感じます。 D.ベイリーのアプローチにもその傾向がありますが、二人には多くの異なるルーツがあります。 私のギター演奏は両氏のスタイルにも影響されています。とはいえ私が実際に体験し鮮明に記憶している高柳さんの演奏の多くは、ギターを抱えることの少ない晩年のノイズミュージックでした。初めて聴いた時の"拷問のごとき痛み"は、聴取を重ねていくうちに子守唄のような心地よさに変わり、サイケデリックなリアリズムとして心身に残っています。奇妙なことに、(Action Directで) 自分がノイズの大洪水に包まれていた時、一方ではしーんとした静寂に浸っている感覚がありました。 他のノイズミュージックではそのようなことは一度もありません。しかしこればかりは実際のライブでしか体験できないので、今となっては本当に貴重な体験となりました。また、ギター演奏で言えば、高柳さんの強力なピッキングからマスプロジェクションと同様のエネルギーをしばしば感じ取りました。再々申し上げますが、私はMass Projection = Gradually Projectionという認識で捉えています。


高柳さんのレッスンを終了してからどうされましたか? 現在、どういった音楽と向き合っていますか?どんな音楽をやりたかったのですか?

1991年に高柳さんが亡くなり、その時はまだレッスン課程を修了していなかったので、残っていた生徒の中で私を含む数人が、今井和雄氏に就いて教本の面倒をみていただきました。今井さんは高柳さんから「卒業」という形をもらえた唯一の生徒でした。その後、私は指を壊してしまい、残りのプロセスを学ぶことに多くの時間を費やしました。途中、家の事情で地元に戻らなければならなくなり、最後は録音したテープを送るやりとりの通信教育のような形で、とりあえず教本の全過程を見ていただいた後、私は予てから高柳ノイズに内包されるサイケデリアとリアリティを再現検証したかったので、地元関西で実験的なソロノイズプロジェクトを何年間か続けました。しかし音楽的には「静」や抽象概念についても長年考察し続けています。 現在、私はいわゆる音楽の要素や抽象概念から音量なども含め多少は自由な境地になれました。より深く音楽に向き合うべく、これからも様々な音、あらゆる歴史などをもっと学んでいく必要があります。真にジャンルやカテゴライズなどの枠を超えた、未知なる「音楽の実体」に少しでも近づきたい。


今井氏、大友氏といった他の生徒たちとの交流はありましたか?

残念ながら高柳さんに習っていた時期は両氏とも音楽的な交流や共演はありませんでした。今井さんは当時すでに高柳さんのもとを卒業しておられたので、病気がちの高柳さんが入院された際には故・飯島(晃)氏とともに代替講師を務めていただいたこともあります。


杉本拓氏とはどうやって出会いましたか? "ONKYO"(音響) シーンについてはどう思いますか?

すみません、杉本さんとはいつどこで初めて会ったのか思い出せません。 でも彼があなた(Michel)に私のCDを送り、最初に紹介していただいたことは覚えています。 そのことは今でも本当に感謝しています。「オンキョー」との出会いもはっきりとは記憶にないのですが、最初にそのサウンドを体験した時、John Cage のカートリッジミュージックを初めて聴いた時のような衝撃を受けました。私も朧げにそれと近いコンセプトを持っていたのでとても共感を覚えます。


ジョン・ケージのテキストは、あなたに何らかの音楽的影響を与えましたか?

彼の革新的な音楽哲学には非常に興味がありましたが、正直なところ、実際に音として表現された作品 (4分33秒や、音楽を伴わないパフォーマンス類も含めて) はあまり好きではなく、易・偶然性による作品に惹かれることはそれほどありませんでした(私の耳が「音楽」に囚われすぎて開かれていないからだとケージに言われそうですが)。 ただし、彼のカートリッジミュージックやエレクトロニクスの類は大好きで、いくつかの作品にはワクワクします。


大友良英氏とも演奏されていますが、彼との共演はいかがでしたか?

大友さんとは長い間会っていませんでした。 2005年の東京でのライブレコーディングが実質的に初めての共演だと思います。 そのあとまた間が開き、2013年に再び一緒にデュオのレコーディングを行い、その夜に大阪のライヴでも共演しました。 その後、2015年の東京で、私が音楽を担当させてもらったドキュメンタリー映画の紹介とライヴを行った際に大友さんにゲスト出演してもらって以来、交流が途絶えています。なので共演はほんの数回しかありませんが、大友氏は自分が一緒に演奏していて最高に気持ちの良い共演者の一人です。 大友さんの奏でるサウンドには、しばしば共通の思い出による懐かしさがよぎることもありますが、ミュージシャンとして氏の真摯に研ぎ澄まされた感覚と広大なレンジを有する音楽性に敬意を示しつつ、毎回本当に楽しい。 大友さんの音楽はもちろん高柳さんとは違う彼独自のものですが、そのサウンドには間違いなく高柳スピリッツが内在しています。


作曲はどのようにアプローチしますか? 従来の記譜法やグラフィックその他のスコアを使用したことはありますか? 即興にどんな余地が残されていますか?

今の私は実験音楽的なタイプのコンポーザーではありません。また、コンセプトを練った後にゆっくりと構築していく方法を取ることもありません。記譜はたいてい通常の五線譜に普通の音符を書きます。しかしリズムに関しては、ほとんどの私の曲はテンポが曖昧で自分にしか感受できないので、小節線は必要ありません(便宜上入れたりもしますが)。リズムは私が即興演奏で自然に出す「間」でもあるので、他の演奏者にはイメージをつかんでもらうのが甚だ容易ではなく、いつも四苦八苦しています。作曲方法については、あるとき、私の五感の記憶のようなものがふいに音像に変換されることがあって、それらが実際のサウンドとして現れます。音は抽象絵画のようでもあれば、ポピュラー音楽のような時もあります。 なぜそうなるのか自分でも全くわかりません。その後、それらを形のある曲として構成するためにしばしば加筆修正していきます。わけのわからない答えですみません。でもいつもそんな感じなのです。


即興に何を見出そうとしていますか?

デレク・ベイリーは自著『インプロヴィゼーション:即興演奏の彼方へ』の中で、即興は様々な音楽に息づいていて、音楽を生み出すプロセスとして内在している…、というようなことを書いていたように記憶しているのですが、私もそれに同意します。プリミティブな音楽はしばしば即興演奏されるし、インプロヴィゼーション自体は流行に左右されるものではありません。そもそも作曲も創造も、時間を延長した即興行為のようなものではないでしょうか。

また、即興は自身の過去から抽出した記憶やクリシェの再現に過ぎない、と考えている向きも多いかと思います。かつてジョン・ケージや何人かのコンテンポラリー作曲家は、即興というものに興味を持たず、むしろ音楽家を阻害する一連の悪しき習慣として捉えていたし、モートン・フェルドマンも自分の提示した図形楽譜を演奏者自身が勝手な解釈や即興で演奏してしまうため、グラフィックな記譜法をあきらめて通常のスコアに戻ったと述べています。

対照的に高柳氏は、インプロヴィゼーションこそ音楽に革新をもたらす大いなる可能性・光だと主張しました。高柳さんは即興をクリシェや習慣(手癖)、あるいは単なる過去の記憶の再現であるとは考えていません。とはいえそれは現時点であまりにも高次な光です。いつか人間の内面がより高いレベルに達した日に顕現するであろう意味においての可能性なのでしょう。 まことに難しいことですが、そのようなインプロヴィゼーションの世界を、自分が生きているうちに少しでも垣間見れたらどんなに幸せなことでしょう。


ソロ・インプロヴィゼーションと、他のプレイヤーとの集団即興にはどのような変化がありますか?自分の内なる世界にいるために、他のミュージシャンの演奏を聞くことがないのですか?

私は表現に対する自分自身のコンセプトや明確なイメージを持っているので、ソロでの即興、または自作の曲を演奏するだけの方が無難ですが、他のミュージシャンと即興で演奏する場合は、なるべく自分の美的価値観に近い人との共演が理想です(今は集団即興における実験的試みにそれほど興味がないというのもあります)。ただ共演者に共通のジャンルやルーツ、近い表現方法を求めているわけではなく、あくまでも一緒に「作品」を作っていく「プロセス」を楽しめる即興アンサンブルにしたいのです。あるときは美術のグループ展のように、お互いのソロを時間軸で横並びにして連続またはスライド演奏していく、連歌のような手法をとることもありました。 いずれにせよ、お互いの表現を毀損することなく、さまざまなアイデアを模索しながら、即興の歴史的失敗を繰り返さないようにすることを自分の肝に銘じています。


あなたはフリーダ・カーロに関する映画のサウンドトラックを作曲しました。どのようなアプローチで臨みましたか?あなたの音楽とフリーダの絵の間にはどんな共鳴をもたらしましたか? 映画のサウンドトラックを作ることはあなたにどのような影響を及ぼしましたか?

そもそも映画音楽自体が未経験である私が、無謀にも小谷監督の作品に参加したいと思ったのは、監督の絵(映像)の美しさが心に大きく共振したからです。フリーダ・カーロは有名なので、名前と作品のいくつかは知っていましたが、このドキュメンタリー映画に接するまで彼女の壮絶な人生の痛みや苦しみについてはそれほど知りませんでした。フリーダの作品はインターネットの画像でしか拝見しておりませんが、メキシコ風味の彩色、その反対に痛々しく奇妙なタッチとフォームで描かれた作品の数々に触れているうちに、私はなんともいえない妙な気持ちに駆られました。そして自分の心の眼が作品の中に見た、血と、祈りと、純白の世界、また彼女の「ブルーハウス」の鮮やかな青によってイメージが触発され、いくつかの曲を作りました。しかし私はやがてフリーダの洋服や靴、日用品など、彼女の遺品にも興味を持つようになり、さらにはそれらを驚くべきリアリティと美しさで撮影された石内都さんの写真に心から魅かれました。フリーダの遺品は、石内さんの優しく温かな愛情と、素晴らしい陰影とライティング、そしてデリケートな構図の感覚によって、もしフリーダが見たら絶対に喜ぶであろう素敵な写真作品として発表されました。その石内都さん自身の姿とリアルタイムのライフワークを、小谷監督がドラマティックに、独特の文学的なタッチと、静謐な美しさを湛えながら、素晴らしい映像化に成功するという、三重のドキュメンタリーだった。結果、私はフリーダ、石内さん、小谷監督、の三人の芸術家から大きな刺激とイメージをいただきました。それゆえこの映画で私はフリーダ・カーロのためだけではなく、美しい映像はもちろん、石内さんと小谷監督にも音楽を捧げています。


ヨーロッパをツアーされましたが、聴衆およびヨーロッパのミュージシャンが音楽に対して行うアプローチにどのような違いを感じましたか?ヨーロッパでプレーすることはあなたにとってどんな意味がありますか?

私が生まれ育った日本では既に西洋音楽がいたるところに浸透していました。私自身も耳を傾け、日常的に演奏し、それらが好きなので、ヨーロッパのミュージシャンのアプローチに対する違和感はほとんど感じません。しかし逆に西洋人の多くが日本人に対して抱く奇妙な印象はまだ残っているのだろうなと思います(例えば物事を曖昧にしたり、善悪の判断をどっちつかずに濁したり…)。これらは、古来からの宗教意識やモラル観に根本的な違いがあるからかもしれません。

ヨーロッパへの初訪問以来、私は異文化交流の喜び以外にも、日本人の感覚で作られた自分のアブストラクトな音楽がリスナーにどのように受けとめられるのか大変興味がありました。2019年のツアーで演奏した"幽"のコンセプトはまさにそれです。"幽"という観念概念を他の言語で説明するのは非常に難しいのですが、およそ「もののあわれ」にも似た、ゆらゆらとした霊魂のようなものというか、霞に包まれたような、ぼんやりとした幻想といった感覚です。今回、私は素晴らしいダンサーのみすずさんと、私の曲をいつも忍耐強く理解に努め演奏してくれるピアニストの薬子尚代さんとともに欧州数カ国を訪問しました。幸せなことにどこの会場でも、私達の"幽"のパフォーマンスに対して多くの観客が楽しんでくれて、お世辞抜きにたくさんの賛辞をいただきました。それは私にとって大きな喜びであるとともに予想外の驚きでもありました。


あなたにとって録音(記録媒体)は何を意味しますか?

録音はあくまで記録に過ぎません。 実際の演奏を聴くことが最も大切ですが、記録媒体は臨場感の追体験を楽しんだり、今や音楽の分析などには欠かせない便利なツールであることは確かです。 また、記録媒体は演奏家や音楽の歴史を長期に渡ってより正確に保存・検証できる方法です。

 

 Propos recueillis par courrier à l’automne 2020

Photographie de Michel Henritzi


 


 

 



 


 

 

 


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